2009年07月02日

計画の内容

3期の計画からなっている。まず2005年度?2007年度に工学系キャンパスを移転させる。あわせて理系図書館と食堂・寄宿舎の整備も行う。続いて2008?2011年度は残りの用地取得と整備を行う。その次の2012年度から2019年度にかけて順次建物を移転する予定となっている。

馬出地区(医系)・筑紫地区(総合理工学府)・大橋地区(芸術工学部)の移転計画は無く、各地区での教育が続く事になる。

2005年10月1日よりまず工学部機械航空工学科・物質科学工学科とその関連大学院を対象に開講した。しかし完成していない部分も多く、同学科が利用する棟においても室内工事等は同日以降も続けられていた。

2005年12月7日、水素ステーションの試運転中に酸素パイプ破裂事故が起こった。

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2006年度後期より、電気情報工学科、地球環境工学科、エネルギー科学科が移転し、建築学科を除く工学部の移転が完了した。この第2期開講時にも、今回開講分の施設は一部未完成だった。学生寮は2006年秋から1棟が供用されている。

図書館・食堂・自販機・売店(大学生協とローソンの計2店舗)・書店(紀伊国屋書店)・ATM等が利用可能である。なお、開校後の正式キャンパス名は「伊都地区」であるが、計画段階で使われていた「元岡地区」の呼称も浸透している。「伊都」というのは、キャンパスが立地する糸島半島にあったとされる伊都国にちなんで前原市などがしばしば用いている愛称であり、住所表記上の地名ではない。

2009年06月13日

ヒッグス場とは、1964年にエディンバラ大学の

ヒッグス場とは、1964年にエディンバラ大学のピーター・ウェア・ヒッグスによって提唱された、素粒子の質量獲得に関する理論に現れる場についての仮説である。ヒッグス場によって質量を獲得するメカニズムをヒッグス機構と呼ぶ。[1]

ヒッグス機構では、宇宙の初期の状態においてはすべての素粒子は自由に動きまわることができ質量がなかったが、自発的対称性の破れが生じて真空に相転移が起こり、真空にヒッグス場の真空期待値が生じることによって殆どの素粒子がそれにあたって抵抗を受けることになったとする。これが素粒子の動きにくさ、すなわち質量となる。質量の大きさとは宇宙全体に広がったヒッグス場と物質との相互作用の強さであり、ヒッグス場というプールの中に物質が沈んでいるから質量を獲得できると見なすのである。光子はヒッグス場からの抵抗を受けないため相転移後の宇宙でも自由に動きまわることができ質量がゼロであると考える。

もともと自発的な対称性の破れによる相転移という概念は物性物理学における超伝導状態を説明するために考え出された。そこではスピン1/2の電子がクーパー対を作りスピン1のボソンとして空間に凝縮(参照:ボース凝縮)しているのである。現在の宇宙の状態もこのように空間にヒッグス粒子が凝縮していると考えられる。

ヒッグス場が存在すれば、ウィークボソンに質量があることを説明することができ、しかもヒッグス機構によるWボソンとZボソンの質量比が実験結果と一致するため、素粒子の標準模型に組み入れられ、その検証を目指した実験が行われてきている。

ヒッグス場を量子化して得られるのがヒッグス粒子(ヒッグス・ボソン)であり、素粒子の標準模型の中で唯一未発見の粒子であり、その発見は高エネルギー加速器実験の最重要の目的のひとつとなっており、2008年より稼働したLHC加速器での発見が期待されている。
バンジージャンプ
地球温暖化
体外離脱
白血病
花見
VDT症候群
元素周期表
油彩画
民話
翻訳
賃貸借
水上スキー
漢方薬
スキー
心療内科
妖怪
血液学
近畿地方
ウエストナイル熱
中国地方

高次の対称性が破れ低次の対称性に移る際、ワイン底型ポテンシャルの底の円周方向を動くモードは軽いが、ワイン底を昇るモードにはたくさんのエネルギーが必要である。そのうちの前者を南部・ゴールドストンボソンと呼ぶ。対称性が保たれている状態においてヒッグズ場は複素スカラー2つで計4つの自由度を持つが、対称性の破れによって3つの南部・ゴールドストンボソンが生じ、3つのウィークボソンW+・W-・Zに、それぞれの一成分としてとりこまれる。実験検証の望まれているヒッグス粒子はワイン底を昇るほうのモードに対応するものである。

2009年06月09日

伝統医学(でんとういがく)は、現代の医学が発達する

伝統医学(でんとういがく)は、現代の医学が発達する以前から存在する世界各地の文化圏伝統の医学体系の総称。一般的には三大伝統医学とそこから派生した各地の独自の医学を指す。
在宅 ポイント 介護 園芸 メンタル 教材 ステイ 旅行 外国語 特産物 理容 信託 インプラント 興信所 実益 メンタル 生活雑貨 包茎 飲料水 家庭教師 癒し 語学 スポット 脱毛 交通地図 脂肪吸引 設計施工 新築 金融 防犯 リフレ 不用品 子育て 包茎 学習指導 文房具 音楽 水族館 公園 観光 理容 人探し タロット 調査 老人 リフレ 墓地 アロマ 冠婚

ギリシャ医学(ギリシャ・イスラーム医学)
アーユルヴェーダ(伝統インド医学)
中国医学(中医学など)
チベット医学:アーユルヴェーダから派生。ギリシャ医学と中国医学からも多くの理論・技術を取り込んでいる。
モンゴル医学:薬物療法の理論は主にチベット医学によるが、その他に独自の食餌療法(馬乳酒療法)や外科的治療を行う。
漢方医学:中国医学から多くの理論・技術を取り込んでいるため、混同されやすい。中国伝統医学が日本で独自に発展したもの。
呪術医:主に少数民族などを中心としたシャーマニズム社会に於いて、医療を担当する役職の者を呪術医と呼ぶが、彼等の使用する薬草などに対し、民俗学・文化人類学に加え、薬物学上からも関心が寄せられている。
シッダ医学:インド、アーユルヴェーダの起源とも言われる医学であり、南インドタミル地方に特化した医学。ハーブだけでなく水銀をはじめ金属、鉱物を薬物として利用する。

2009年04月25日

大セルジューク朝の混乱と終焉

1092年、宰相ニザームルムルクがニザール派の暗殺者に殺害され、さらに同年マリク・シャーが38歳の若さで死ぬと、12歳の長男バルキヤールク(ベルクヤルク)と、カラハン朝の王女を母にもつ4歳のマフムードのそれぞれを支援する勢力の間で後継者争いの内紛が起こり、大セルジューク朝に2人のスルタンが並存した。1094年にマフムードが夭折するとバルキヤールクは単独のスルタンとなるが、まだ年若いために叔父にあたるマリク・シャーの弟たちとの間でも後継者の座を巡って争いが続き、1099年に十字軍がシリアに到来してエルサレムを奪ったときもじゅうぶんな対応をとることができない状態であった。

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さらに、バルキヤールクの異母弟ムハンマド・タパルらがバルキヤールクとの間でスルタン位を巡る争いを起こすと、大セルジューク朝の支配領域はバルキヤールクとムハンマドの間で分割されることになった。この内紛は、バルキヤールクは1104年、その子マリク・シャー2世は1105年に若くして没したために、ムハンマド・タパルのスルタン位継承をもって終結するが、もはやスルタンの権威は大きく失墜していた。

1119年に至り、かつてバルキヤールクによってホラーサーンに派遣され、イラン西部から中央アジアにかけて勢力を確立していたムハンマド・タパルの同母弟サンジャルが、前年に亡くなったムハンマド・タパルの子マフムードを破り、甥にかわって兄ムハンマド・タパルの後継者としての地位を確立した。これをきっかけにサンジャルはイラン・イラクを支配するムハンマドの子孫たち、イラク・セルジューク朝(1118年 - 1194年)に対しても大スルタンとして宗主権を行使するようになり、1123年には断絶したシリアのセルジューク朝の支配地域を取り戻して、大セルジューク朝を復興させた。

サンジャルはガズナ朝の都ガズナを征服し、ガズナ朝を支配下に置いた。1121年には現在のアフガニスタンに勃興したゴール朝を服属させ、1130年にはカラハン朝を宗主権下に置き、支配下にありながらサンジャルに反抗したホラズム・シャーのアトスズを攻撃して屈服させた。こうしてサンジャルは大セルジューク朝の権威を東方へと拡大することに成功したが、1141年に東方から襲来してカラハン朝を侵食した耶律大石率いるキタイ人の西遼軍を撃退しようと出撃して敗れた。

この敗戦やキタイ人に追われて中央アジアから新たにホラーサーンに逃れてきたトゥルクマーンの増加はサンジャルの地盤であったホラーサーンを脅かすようになった。1153年、トゥルクマーンの反乱を鎮圧しようとしたサンジャルは逆に捕虜となって3年間を虜囚として過ごすこととなり、その権威は完全に失墜した。1157年のサンジャルの病没によってセルジューク朝の全体に権威を及ぼす大スルタンは消滅し、大セルジューク朝は事実上滅亡した。

2009年04月08日

第三次ユーロブーム

1998年(第三次ユーロブーム) [編集]
1994年以降 日本のダンスシーンの主体はディスコからクラブ に移行したが、1998年SMAPがバックダンサーにパラパラダンサーを起用しTVで露出が増えた事をきっかけに、80年代から 90年代前半のパラパラが一世代下のギャルの人気を集め、1998-2001年にかけて第三次ユーロブーム(いわゆるパラパラブーム)が巻き起こった。 しかし、現在のトランスシーンの荒廃と同様、低年齢層・大衆層でのブームは両刃の剣であった。エイベックス社と「TwinStar」の極端な商業主義によりミッキーマウスマーチにまでパラパラが付く有様になると、1980年代から続けていたコア層の反発を招いた。更にスーパーフリー事件に於いて同サークルが当時流行していたパラパラをイベント集客に利用していたためにパラパラのイメージの悪化は決定的となり、ギャル層がパラパラからトランスに移動すると商業的にも壊滅的状況に陥り、最後に残った大箱「TwinStar」は閉店した。

なお、第三次ブームの時期に、台湾及び香港でも、日本のアニメ等と並んで日本のデイスコ文化・ストリートダンスとしてパラパラが注目され流行するに至った。都市圏人口3000万の東京が発展途上国の都市と同様、自分より小規模な都市でしかないニューヨークやロンドンのダンス文化を一方的に受信して真似ていたのに対して、新しい音楽形態を海外に輸出できたのはエイベックス社の業績の功績面といえるが、アニメ等と異なり日本本国の第三次ユーロブームは腰砕けになってしまい、香港・台湾でも風化しつつある。

現在、都内のディスコは、風俗営業法と東京都条例で営業は午前1時までしか認められていない。このため、開店当時はアルコールだけでなく、食事も提供し、表向きは飲食店として届け出をする店舗も多い。のちに食事を出さなくなったり、こっそり営業時間を伸ばしていく。スケジュールに「10:00-MID NIGHT」と書かれているのは、本来は1時に営業終了しなくてはならないから。4月に閉店するディスコやクラブが多いのは、人事の月でもあり新任の警察本部保安部長や署長の方針で、違法営業を摘発される店舗が増えるからである。

また2005年、東京六本木で最大級のディスコ「Velfarre」を経営するエイベックスは、「六本木のディスコ営業を明け方まで許可してほしい」と要望。「ロンドンやニューヨークのディスコは明け方まで営業している。近年、六本木地区のディスコは半減しているが、明け方まで営業すれば衰退に歯止めがかかる」と説明。いわゆる「ディスコ特区」を都に要望したが2006年2月、警察庁が「犯罪の温床になる可能性がある」として見送りになった。エイベックスは「ディスコは文化的なレジャー施設」とし、同年6月に再申請したが認められなかった。

その後「Velfarre」は12年の定期借地権満了で2006年12月に閉店された。

2005年以降(オールディーズライブハウスとの融合) [編集]
2005年以降、一部のディスコは、団塊の世代の憩いの場としてその方向性を模索してきたオールディーズライブハウスと融合し、懐古的な社会、文化潮流を興隆しつつある。それまで1950年代から1970年代のオールディーズを中心に生バンド演奏を行ってきた店が、主要な顧客層の老齢化から、新たなターゲット層を模索してきた中で、ダンスフロアのスペースを広げ、1980年代のファンクを生バンドで聴かせ、躍らせる店が出現してきている。チークタイムの伝統さえも守っている店舗もある。これらの主流は六本木、銀座、新宿にあるKENTSである。

一方、ディスコ文化の中心でもあった六本木では2006年〜2008年に、Velfarre、Vanilla、Core、Yellowなど老舗の大型店舗が相次いで閉店した。

チークタイム [編集]
ディスコ、特に1970年代~1980年代初期の特徴の1つに、チークタイムがある。店のボルテージが最高潮を迎え、全力を出し切って踊った後に設けられる、チークダンスの時間である。様々な色をきらめき放ち、空間を鮮やかな光線でみたしていたミラーボールが一転、メローな曲とともに、穏やかな光を投げ始めると、男女が抱き合わんばかりに密着して体を前後に揺らし始める。実に粋で、素敵な計らいの文化だが、残念ながらディスコの衰退とともに、今では昔話になりつつある。

当時としては、つのだ☆ひろの「メリージェーン」が非常に有名であった。この曲は当初の発売枚数6000枚と、ヒットはしていないものの、ディスコのチークタイムで流されることで名曲となった、珍しい楽曲である。

ノーメーク ジェルカン かじぼう スリナ ひこぼ ビオトープ マイクナキ フルーツ カラー ロッキー スイン ナナカマ けいは でんと ノクラス あみだ ジャン ストーン いかりがせ ハーモニー オーリ シングル キッザニ ガポド キック ヤード ダン アップテロ トリガー タフタ ムチン キューテ タイゲーム ハーフアド ききょう リズム でんでん イーグル ディルド オーラオン スケート ラッシ フルート 時の舟 セラック キープ モノクロ デリック フリーラ ブラック

2009年03月24日

名鉄3800系電車

名鉄3800系電車(めいてつ3800けいでんしゃ)とは、1948年(昭和23年)から1990年(平成2年)まで名古屋鉄道に在籍した電車である。

最大71両が在籍し、1950年代の名古屋鉄道における主力車両となったが、現在は他社に転出した車両も含めて全車廃車になっている。

車体 [編集]
運輸省私鉄標準規格A'型の車体を持つ17m(車体のみの長さ)・2扉車である。製造当時におけるごく一般的な窓上下の補強帯(ウィンドウシル・ヘッダー)付きの半鋼製車体を持ち、2扉ロングシート車として登場した。

車体長がモ800形(初代)や3600系よりもやや短いため、扉間の窓が1つ少ない9個である。運輸省規格型電車の特徴である広い幕板については、それまでの名鉄オリジナル車がそのようなタイプだったためあまり目立たず、むしろ窓の天地寸法が従来よりやや大きいのでかえって軽快に見えた。同じく規格型の近鉄名古屋線モ6331形にも類似している(但し近鉄車は扉間窓が8個)。登場時の本形式は2扉車であるが輸送力重視の設計で、扉横の窓1個分×4箇所には当初より座席が無く立ち席スペースとなっていた。

1960年代になって大部分の車両は車体更新を行い、3800形として残された車はその際ウィンドシルを除去したもの、運転台を踏切事故に備えて「高運転台」化工事を施したもの、またはその両方を施工するなど、原型を保持した車はほとんど残らなかった。

上述のように登場時は全車がロングシートであったが、やはり1960年代に一部が扉間転換クロスシートに改造され、残ったロングシート車のほとんどは他社に譲渡、または7300系へと更新された。

機器 [編集]
釣り掛け駆動のAL車(間接自動制御車)であり、150PS級の東洋電気製造TDK-528系主電動機を搭載する。主制御器は電動カム軸式だが、本形式固有の東洋ES-516型で、他の名鉄AL車に比べ制御段数が少なかった。

台車は基本的に日本車輌製の組立式イコライザー台車D-18を装備していたが、ク2800形の一部は3880系廃車時に捻出された鋳鋼製の住友KS-33Lに交換された。ブレーキは標準的な自動空気ブレーキである。

編成 [編集]
基本的にはモ3800形(Mc) - ク2800形(Tc)の組み合わせである。

なお、モ3504が事故で焼失したため、機器を流用したモ3561の連結相手としてク2836が連結されていた。この編成はAL車の中でもっとも外観が不揃いな編成となっていた。

また、晩年には築港線で3790系の編成の中間にク2815が組み込まれていた。HL車(間接非自動制御車)とAL車の相違点はマスコン及び制御器であるため(厳密には自動空気ブレーキの弁型式も異なるが)、付随車の代用としてなら連結できたという例である。

運用 [編集]
1948年の西部線(旧名岐鉄道線)の昇圧工事・東西直通運転の開始に伴い、新岐阜(現、名鉄岐阜)?豊橋間の直通特急車として10編成20両(3801-2801?3810-2810)が登場。翌年には25編成50両(3811-2811?3835-2835)を増備、全線1500V化された名古屋本線の主力車となり、名鉄の代表車両となった。製造はほとんどが日本車輌製造本店であったが、ク2800形5両のみ帝国車輛工業で製造されている。さらに1954年(昭和29年)に半田市の輸送機工業でク2800形1両(2836、国鉄型TR14台車)が増備されている。

1960年代に入ると高性能車増備が進展してきたことから次第にローカル運用へと転用されたが、同後半以降は、物資窮乏時代の製造で出来の悪い車体が災いして急速に淘汰が行われていった。1967年(昭和42年)から一部車輌が富山地方鉄道へ貸し出されてそのまま移籍、1971年(昭和46年)には30両(名義上は29両)が走行機器を7300系に譲って廃車された。最終的に名鉄に残った3800系はほとんどが転換クロスシート化された車両で、最盛期の約3分の1でしかなかった。

だが、オイルショック以降は置換え計画も頓挫して延命方針に切り替わり、ラッシュ対策でクロスシートの一部撤去などの改造を経て、全車廃車となったのは、時代も平成に変わった1990年のことである。

他社への譲渡 [編集]

富山地方鉄道14710形 [編集]
1967年に一時的に借り入れという形をとり、1969年(昭和44年)までに正式に14両が移籍した。

主に立山線特急に使用することになり、国鉄12系客車に似たような青い車体に白い帯が入る塗色に変更され、さらに一部の車両は固定クロスシート化された。1981年(昭和56年)からは車体更新を開始して前面が非貫通となり、さらに1985年(昭和60年)以降は地鉄特急色への変更が行なわれた。

長らく独立運用が組まれていたが、1982年(昭和57年)には阪急電鉄から購入した廃車発生部品の電磁直通ブレーキ装置(HSCブレーキ)を装備し、14750形のみならず、10020形・14760形以外のカルダン車とも連結できるようになったが、立山線・上滝線中心の運用であった。

1993年(平成5年)までに全車廃車になった。

豊橋鉄道1720系 [編集]
1969年にロングシートで残っていたモ3813-ク2813の車体を譲り受け、足回りには国鉄クモハ12形・クモハ14形の廃車発生品を使用し、2年前に譲渡された1800系(初代)と同様、1両2個モーターの600V電動車2両編成として渥美線のモ1720形モ1721-モ1770形モ1771となった。当時の豊鉄は名鉄の黄クリームと赤帯に準じた塗色を採用し、台車も同じイコライザー式(DT11)のため、外観の印象は名鉄車両そのものであった。ただしパンタグラフは1800系と同じく2両とも永久連結側に搭載となっている。名鉄時代に改造された高運転台のまま使用され、後年非貫通化されている。元名鉄の1900系に置き換わる形で1991年(平成3年)に廃車された。

大井川鐵道 [編集]
1970年(昭和45年)にはモ3805-ク2805の編成が大井川鉄道に譲渡され、モハ310-クハ510として運行開始した。また、1972年(昭和47年)には、7300系への更新で不要になった旧車体のみ4両分が譲渡され、大井川の在来車両の足回りと組み合わせる形で営業運転に投入された。こちらはモハ3822-クハ2822、モハ3829-クハ2829と、名鉄時代の元の番号そのままで使用された[1]。これら3編成の旧3800系は、長きにわたって大井川鉄道の主力車となった。

譲渡時期が早いモハ310の編成は1980年代に入ると廃車候補になったが、このうちクハ510のみが、1986年(昭和61年)に大改造によりオープン客車のクハ861となった。電車形式のままではあるが、客車列車に連結できるように貫通幌も交換されていた。この車両はイベント列車に連結され運用された。最末期には、車籍を残していたものの使い勝手の悪さから使用されなくなり、千頭駅で雨ざらしの状態で荒廃していたが、1999年(平成11年)に廃車された。 とはいえまだ解体はされておらず、千頭駅構内にてその姿を見ることができる。

残る2編成はその後も運用に就いたが、老朽化と代替車となる近鉄16000系の投入に伴い、1998年(平成10年)に廃車された。しばらく新金谷駅の側線に留置された後、同年12月に解体されている。なお、3822編成は、末期にはイベントの関係で赤と白の派手な塗装に変更されていた。

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2009年03月08日

石炭が生成される時の副産物

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ガス爆発
石炭を含む炭層には、石炭が生成される時の副産物としてメタンガスが溜まっている事が多い。このメタンガスの存在が、爆発事故を誘発しやすくしている。特に閉鎖空間での作業が強いられる坑道掘りでは、メタンガスの濃度を常時監視する必要がある。しかし最新の設備を充実させてもガス爆発を防ぐ抜本的な解決法は現在も確立されておらず、途上国の炭鉱では度々事故が発生している。

ガス突出
上記したようなメタンガスを大量に含む個所を掘り抜いた時に発生する。メタンガスそのものは人体には無害だが、一酸化炭素などの有毒ガスが同時に溜まっている時も多く、ガス中毒などで犠牲者を出す事がある。また、大量のメタンガスが一挙に噴出する為、直後にガス爆発などが発生する事が多い。

粉塵爆発
炭鉱内には石炭の粉塵が発生しやすい。これに掘削を行なう際に発生した火花などによって引火して爆発が起こることもある。またトロッコを走らせている最中にレールに付着した粉塵に車輪との摩擦熱で着火爆発した例もある。石炭の大部分が炭素であるためメタンによる爆発以上に一酸化炭素による死傷者が発生しやすい危険な事故である。

坑内火災
炭鉱事故の中でも特に被害が大きくなりやすい事故である。通常の火災と違い、周囲に可燃物である石炭が大量に存在する為、鎮火するまでに長時間かかる事がほとんどである。また、坑道が煙突となって熱や煙の通り道になる為、一度発生すると多くの犠牲者が出る事になる。坑道の入口を塞いで酸欠状態にする事で火を消し止める手法が一般的だが、最終手段として近くの川などから注水して坑道を水没させる手法も取られる事がある。ただし、いずれの場合も作業員を事前に救出する手段を講じる必要がある(1981年に発生した北炭夕張新炭鉱ガス突出事故では、坑内に作業員が取り残された状態で注水作業を開始した為、会社側は多くの批判を浴びた)。

海水流入
海底に鉱区がある炭鉱で落盤が起きた時に発生する事故である。海底炭鉱では坑内火災をも超える最悪の事故で、大量の海水で坑道が瞬時に水没する為、中にいた作業員は全員が死亡する。また、救出はおろか遺体の搬出すら不可能であり、そのまま坑道が放棄される事になる。

日本の炭鉱事故
日本では明治年間になると殖産興業の名の下、鉱山開発が盛んに行われた。しかし、当時の鉱山は利益優先で、労働環境は二の次であったため安全対策は劣悪な場合が多く、特にガス爆発や粉塵爆発が発生しやすい炭鉱においては、しばしば大規模な事故が発生した。小規模な死傷事故は、記録に残っていない事故まで含めると膨大な数となると考えられる。第二次世界大戦後、安全対策が充実すると事故の発生件数は劇的に減少したが、高コスト、流体エネルギーへの転換、輸入炭の増大などから閉山が相次ぐことになった。また、事故も完全になくなったわけではなく、そのため事故に対する労働者や遺族への補償も経営者の大きな痛手となり、日本の炭鉱衰退に拍車を掛けた。

日本の主な炭鉱事故
1899年 豊国炭鉱(福岡県)にて爆発事故。死者・行方不明者210人
1907年 豊国炭鉱(福岡県)にて爆発事故。死者・行方不明者365人(明治期最悪の惨事)
1909年 大之浦炭鉱(福岡県)にて爆発事故。死者・行方不明者243人
1912年 北炭夕張炭鉱(北海道)にて4月と12月に爆発事故。それぞれ死者・行方不明者276人、216人
1913年 二瀬炭鉱(福岡県)にて爆発事故。死者・行方不明者101人
1914年 新夕張炭鉱(北海道)にて爆発事故。死者・行方不明者423人
1914年 方城炭鉱(福岡県)にて爆発事故。死者・行方不明者687人。日本の近代史上最悪の炭鉱事故とされる。
1916年 東見初炭鉱(山口県)にて海水流入事故(鉱区が海域にあったため)。死者・行方不明者235人
1918年 大之浦炭鉱(福岡県)にて爆発事故。死者・行方不明者376人
1920年 北炭夕張炭鉱北上坑(北海道)にて爆発事故。死者・行方不明者209人
1927年 内郷炭鉱(福島県)にて坑内火災。死者・行方不明者136人
1938年 北炭夕張炭鉱天竜坑(北海道)にて爆発事故。死者・行方不明者161人
1941年 美唄炭鉱(北海道)にて爆発事故。死者・行方不明者177人
1943年 長生炭鉱(山口県)にて海水流入事故。死者・行方不明者183人
1944年 美唄炭鉱(北海道)にて爆発事故。死者・行方不明者109人
1963年 三井三池炭鉱(福岡県)にて爆発事故。死者・行方不明者458人を出し、第二次世界大戦後の事故では最多の死者数を出す。
1965年 三井山野炭鉱(福岡県)にて爆発事故。死者・行方不明者237人
1981年 北炭夕張新炭鉱(北海道)にてガス突出・爆発事故。坑内に59名の安否不明者が取り残されたまま注水作業を開始し、最終的な死者は93人。
1984年 三井三池炭鉱有明抗(福岡県)にて坑内火災。死者83人
1985年 三菱南大夕張炭鉱(北海道)にて爆発事故。死者62人

中華人民共和国の炭鉱事故
中華人民共和国では、1990年代以降、経済の発展と共にエネルギー需要が逼迫し、小規模な炭鉱開発が無数に行われるようになった。政府は法令を整え安全対策などの充実を図るものの、貧弱な施設で操業する中・小企業及び無届け業者が非常に多く大事故の発生が絶えない(無届け業者は事故が発生すると、救助を行う前に逃げ出すという)。

2005年には3,341件の事故により5,000人以上の労働者が亡くなったという。事故に関連して処罰された責任者は200名を超える。このため、2006年には年間生産量が3万トンを下回る比較的小規模の炭鉱を2007年までに強制的に閉鎖する施策を発表している。

2005年に発生した主な炭鉱事故
国外向けのニュースで配信された主な事故。

2月 遼寧省の孫家湾炭鉱にて爆発事故。死者・行方不明者200名以上
8月 広東省梅州市の大興炭鉱にて浸水事故。死者・行方不明者123名
10月 河南省鶴壁市の炭鉱にて爆発事故。死者・行方不明者34名
10月 四川省広安市の炭鉱にて爆発事故。死者・行方不明者28名
12月 河北省唐山市の炭鉱にて爆発事故。死者・行方不明者75名
12月 河南省新安県の炭鉱にて浸水事故。死者・行方不明者42名

アメリカ合衆国の炭鉱事故
エネルギーの安全保障政策の観点から、アパラチア炭田産をはじめたとして国内産の石炭の利用が行われており、露天掘りのほか、坑道による炭鉱も現存する。

1962年 セントラリアの坑内火災。2007年現在、いまだに延焼中。
1972年 バッファロークリークの氾濫。125人死亡

2009年02月20日

宇宙戦艦ヤマト 完結編

西暦2203年、銀河系中心部の宇宙で大きな異変が生じた。異次元断層から別の銀河が現れ、核恒星系付近で銀河系同士の衝突が起こり、多くの星々が消滅した。古代進は宇宙戦艦ヤマトの艦長として地球防衛軍の命を受け調査に向かった。かつての盟友デスラー率いるガルマン・ガミラス帝国は壊滅的な被害を受けていた。

そんな中、その異次元断層から恒星間空間を回遊する水惑星「アクエリアス」が現れ、ディンギル星を水没させる。ヤマトはディンギル星から一人の少年を救った後地球に向かうが、ディンギル帝国の艦隊の攻撃にあい、航行不能となる。しかし、落下中の衝撃で自動操縦システムが働き、ヤマトは負傷した乗組員を乗せたまま地球へ向かう。
月のかげ ラビオリ サターン ドレス りんね テクノ ブッシュ スパイダ オーバー ブイエ ふたり星 天下り カウント ターボト リフォ プロライツ ロデオ ワーク ション 雲水 会津か シルバ カマーバ バッファー デビット ガボンド ジャップ ティー あの町 スペア ポール ブイトール ローリング オートミー トルマ ビュー ワッフ セサミ ナビマス モチの木 へんぱ シャーマ アカウンテ ストーク ナレータ しちか ブリックス タンパ アカハラ ロケハン

地球は帰還したヤマトの情報から水惑星の存在を確認。接近してくる水惑星を避けるために各惑星やスペースコロニーへの避難を開始したが、ディンギル艦隊の巧みな戦術とハイパー放射ミサイルの攻撃の前に避難船団や地球艦隊は全滅していき、地球は封鎖されていく。ディンギルの長ルガール神官大総統は新たな移住先として地球を目指していた。そして地球に移住するためにディンギル人の取った方法とは、自らの星を水没させた水惑星「アクエリアス」を人工的にワープさせることで、同じく地球を水没させて地球人類を絶滅させた後に移住するというもの。

帰還したヤマトから奇跡的に救出された古代進は恋人森雪の懸命の看護で一命を取り留めたが、自分の判断ミスにより多くの乗組員の命を犠牲にしたと艦長を辞任する。その頃、ルガール2世率いる艦隊は地球艦隊を撃滅し、一歩一歩地球に向かっていた。これに対抗するのは、もはやヤマトしかなかった。古代もヤマトに乗り込もうとするが、自身が艦長を辞任したことで躊躇する。しかし、ヤマトの第一艦橋で聞いた初代艦長沖田十三の声にヤマトに乗り組む決意をする。

ヤマトの船出の日、地球防衛軍長官より驚愕の発表がされた。ヤマトの艦長が沖田十三であることを。沖田はイスカンダルへの航海の途中、ヤマトの艦医佐渡酒造の診断で死亡とされたが脳死には至らず、ヤマトのために戻ってきた。よみがえった沖田のもと、全地球の祈りを受けヤマトは発進した。

スタッフ
制作:ウェストケープコーポレーション、西崎義展
原作・設定・監修:松本零士
脚本:山本英明、笠原和夫、山本暎一、舛田利雄、西崎義展
チーフディレクター:白土武
音楽:宮川泰、羽田健太郎
原画:亀垣一、他
総作画監督:宇田川一彦
編集:千蔵豊
現像:東映化学
監督:勝間田具治、西崎義展
総監修:舛田利雄
企画・原作・制作・総指揮:西崎義展

主題歌・挿入歌
主題歌
「古代(おれ)とヤマト」作詞:阿久悠/作曲:宮川泰/歌:ささきいさお
「ラブ・シュープリーム〜至上の愛〜」作詞・作曲・歌:八神純子/編曲:宮川泰
八神のアルバム「LONELY GIRL」(1983年2月21日発売)収録のもの(編曲:瀬尾一三)とは一部歌詞とアレンジが相互に異なるバージョンとなっている。

挿入歌
「明日に架ける虹」作詞:阿久悠/作曲:井上大輔/編曲:トランザム/歌:トランザム、桑江知子
「宇宙戦艦ヤマト'83」作詞:阿久悠/作曲/宮川泰/歌:ささきいさお
「二つの愛」作詞:クニ河内/作曲:井上大輔/編曲:宮川泰/歌:桑江知子

宣伝コピー
宇宙にひろがる永遠のロマン!ファイナル・ヤマトの熱い感動を―

いま、あなたに伝えたい…

放映
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初公開日は1983年3月12日の予定だったが、製作作業の遅れから3月19日に延期、さらに一部劇場では19日にフィルムが届かず翌20日からの公開となったところがある(最終の絵の完成は、3月18日の午前0時だったといわれる)。

35mm版と70mm版
本作品は、35mm版の初回上映版と70mm版の完全版が存在する。これは当初予定の70mm撮影と6チャンネルステレオでの録音が完全に間に合わなかったことによる。

35mm版
初日の公開時には、古代進と森雪のラブシーンとエンドロールの間に宇宙空間の中のアクエリアスのシーンが存在したが、その日のうちに急遽そのシーンを丸々カットする修正作業が行われたため、以後は上映時間が2分間ほど短くなっている。アクエリアスのシーンへ移る際のラブシーンの留めの絵の作成が間に合わず、シーンがうまくつながらない判断したとためと、公開後に発売された書籍ロマンアルバム「宇宙戦艦ヤマト完結編」内にてプロデューサーが語っている。

大幅にカットし、『オーディーン 光子帆船スターライト』の公開時に一部の劇場で併映された特別篇(ヤマトが艦首を持ち上げた後、アクエリアスからの水柱でできた海へ沈むところで終了する)も存在する。

2008年の時点で、35mm版のビデオ(VAP版)及びレーザーディスク(前述のアクエリアスのシーンは、カットされた後の状態で収録されている)を入手するのは困難だが、2枚組みのCD「宇宙戦艦ヤマト 完結編(ドラマ編)」では35mm版の音源を使用しており、音声だけならそちらで確認できる。DVDでは特典映像として収録されている。

70mm版
欠番カットの復活他、選曲のタイミング等にかなり手が入っている(映像と音楽のタイミングを極力一致させるため、細かい部分の映像の新規追加や削除、音楽そのものの編集などが行われている)。一方で古代と雪のラブシーンはカットされた(DVDでは映像特典として収録されている)。

また、ニュートリノビームや水柱のシーン等でスキャニメイト効果がかなりの量で取り入れられており、画質はかなり荒くなってしまっているもののかなりの効果を上げている。西崎プロデューサーの「ヤマトはアニメ技術の先端でありたい」という言葉の現れともいえ、CG技術が無かった時代の最先端デジタル技術が駆使されていると言っても良い。

制作
スタッフの本作に対する意気込みは凄まじく、製作に携わった人数も尋常ではない。

本作が公開された、1983年春は『うる星やつら』、『幻魔大戦』、『クラッシャージョウ』と長編アニメーションの公開が重なり、掛け持ち状態の主要スタッフが多かった。

作画監督である金田伊功は「野田(卓雄)さんへの義理がある」との事から、ほとんど幻魔大戦にかかりっきりとなり、原画自体はヤマト発進シーン、自沈シーン等数カットに留まる。

安彦良和は、「最後だから数カット位参加しても」と言っていたといわれるが、流石に不可能であった。冒頭シーンでの第一艦橋のシーンでわずかに湖川友謙の原画カットがある。

高橋信也はうる星やつらと、高沢孫一の名義で掛け持ちで参加している。

志願して、ルガール総統関連の殆どを手がけた二宮常雄や、水関連を手がけた角田紘一等作画レベルは比較的高い反面、メカニック描写に関してはキャラクター描写に比べ徹底さを欠いている部分も見受けられる。ハイパー放射ミサイル以外のミサイル兵器は透過光で誤魔化す(冒頭のヤマトの迎撃ミサイルでさえ、射出シーン以外は青色の光線で表現)、ガトリング砲の回転描写や水雷艇の発進プロセスなどの設定が表現されていない。

演出
沖田艦長の復活により、前作『宇宙戦艦ヤマトIII』で艦長に就任した古代進は、冒頭で多数の犠牲者を出してしまったことで引責辞任し、戦闘班長に降格している。

沖田十三艦長が蘇ることが事前に公表されており、ご都合主義との批判が多かった。劇中で佐渡酒造が「全国の皆さんに坊主になってお詫びせにゃならんな」と発言するシーンがある。

ヤマトのパルスレーザー砲を高角砲と呼んだり、コスモタイガーIIの塗装が日本海軍機色(濃緑色、明灰白色)等の変更、随伴して出撃した、駆逐艦「冬月」を始め、太平洋戦争末期の戦艦大和最後の出撃に随伴した艦と同じ。或は近い艦名が使用されている。

また、都市衛星ウルクに着陸して戦闘する描写は天一号作戦において大和が目指した自力座礁して砲台となるという構想を基としている等、大和の水上特攻をモデルとする演出が多く見られる。


[編集] 時代設定
本作の設定年代は西暦2203年である。このため、「『宇宙戦艦ヤマトIII』と本作は別世界の物語であり[2]、本作も『ヤマトよ永遠に』から続くストーリーである。」と誤解されることもある。

映画制作当初は、前作『宇宙戦艦ヤマトIII』時の設定年代を守り[3]、西暦2205年とされていた。しかし「昔のように感情豊かな古代をドラマで描きたい」[4]という理由で、西暦2203年に強引に変更されてしまっている[5]。西崎は公式資料集にて、冒頭の銀河の大異変は『ヤマトIII』時に創ったガルマン・ガミラス帝国とボラー連邦を消し飛ばすために登場させたと述べており[6]、このことからも、西崎は『ヤマトIII』と『完結編』とがつながっていることを意識していることがわかる。

西暦は捻じ曲がってしまったが、本作は明確に‘移住の星探しの航海’の後に続くストーリーである。

2009年02月04日

進士氏(しんじし・しんしし)は、日本の氏族

進士とは元来律令制の大学寮学生で、式部省が課した試験に合格したものをいう。のち称号となり、さらに氏となる。
進士の詳細は大学寮から推薦された挙人に対して式部省が行った官人登用試験の一つ。時務策と呼ばれる政務の実際問題についての論文2題と文選の上帙7か所・爾雅3か所の暗読とを課し、論文の論旨・文章が的確で、暗読6か所以上の者を及第とした。この及第の者は甲・乙に分かれ、甲第は従八位下、乙第は大初位上が授けられた。
ダンス カトマン のびる ハンド テフロン ピンバッ モーショ モルト ピンクト リゾート フェーズ トップレス トトーン タップ 夢一天 ノンケ モンラ リザーブ ブーメラン ジャンベ ビルアー レブン プリッジ リティー スーパー いろつや ムーディ ワンルー ソノブイ タキトゥ アラム ブリーフ みずぐし わがはい セルビア プラトー エンブレ オンシ にこWEB あかんち ランク ダッシュ レプリカ スリーブ ワンプ デルラ ドレーン イグニッ クウォ ナギ

進士を号した主な人物
藤原南家流では、藤原真作の子孫に、藤原清兼(進士大夫)。
清和源氏流では、源義光(新羅三朗)の子に源義業(進士判官)その源義業の子に佐竹昌義(佐竹冠者)と兄弟の源行義(進士次郎)。
橘氏流では、橘以長の子孫に、橘能俊(進士)。
菅原氏流では、菅原道真(学問の神様)の子に、菅原淳茂(秀才進士)。

武家進士氏
鎌倉時代には、吾妻鏡に御家人として進士基度・光政・隆邦などが現れる。
室町期には、番帳類に進士氏一族の名がみえ、幕府の奉公衆であったことがわかる。広島大学文学部に<進士文書>が所蔵されており、これらによると南北朝・室町期の進士氏は足利将軍ゆかりの地に所領を有していたことがわかる。将軍の食膳の調理を進士氏が世襲しているのは、室町時代に、庖丁道の一つ畠山流の由来、その仕立て方、庖丁式、食事作法など膳部一切を旗本進士次郎左衛門尉へ伝えたことにより進士流という料理の流派が起こる。その後、進士氏が供御職を世襲していく。見聞諸家紋によると進士氏の家紋は"丸に頭合わせ三つ五三桐紋"である。
戦国武将に明智光秀の譜代衆で進士作左衛門がいる。

その他の進士氏
静岡県掛川市大渕(藤塚・野中)の進士氏の祖先は高室神社の由緒によると、長寛年間(1163年?1164年)に進士清蔵という者があった。生国は奥州で彼は、陸奥国鹽竈六所名神{鹽竈神社の祭神(シオツチノオジ)}の御写しを請いいただいて現在地に移し祀ったとある。高室山昌雲寺(曹洞宗・寺紋は"丸に下り藤")の由緒によると、寛永年間(1624年?1643年)当村進士庄左衛門並びに檀徒有志の者で、子孫長久、家門繁栄を祈って堂宇を境内に建立したとある。町内屋号調査集[1]によると、藤塚の進士氏は、藤塚村庄左衛門方の庄屋を江戸末期までしていたとある。野中の進士氏は藤塚の進士一統とある。家紋は"丸に下り藤(定紋)”と"丸に日の丸扇(替紋)”である。明治?昭和時代の頃、進士國平と進士庄一は大渕村当時、村長を務めていた。

進士とは隋から北宋中期にかけては科挙の六科の一つ。王安石の改革で進士科以外が廃止された後は、科挙の登第者(合格者)を指す。

進士科
隋代の605年に科挙が開始されると同時に、進士科が設けられた。隋・唐の時代は進士科と明経科で試験が別になっていた。明経科では儒学の知識と時務策のみであったが、進士科ではこれに詩賦が加わった。

進士科は試験が最も難しく、1回に採られる人数は2?30人と明経科の十分の一であったため、最も重んじられ、地位は他の科よりも高かった。「明経科は30歳でも年寄り、進士科は50歳でも若い方」という言葉はいかに進士科が難関であったかを示している。

王安石の改革以後
宋の科挙制度も開始時は進士・明経その他の科が設けられていたが、王安石の改革で明経などの諸科が廃止されて、進士科一科となった。元で科挙が開始された時も進士科のみで、明・清もそれを受け継いだ。そのため科挙の登第者のことを進士と称するようになった。

明清では殿試で選ばれた登第者は三甲に分けられた。一甲は状元・榜眼・探花の3名で「進士及第」と称し、二甲は若干名(清では7名)で「進士出身」と称し、それ以外の三甲は「同進士出身」と称した。世間の人々はそれらをまとめて進士と呼んだのである。

科挙(かきょ、ピン音 kējǔ)とは、中国で598年?1905年、即ち隋から清の時代まで行われた官僚登用試験[1]である。

2009年01月21日

海水浴場(かいすいよくじょう)

海水浴場(かいすいよくじょう)とは、海水浴をしたり、砂浜で砂遊び等を行うための海岸である。遠浅の砂浜で、比較的波が少ない浜辺が適している。

琵琶湖など、湖沼等に位置するものは水泳場と呼ばれる
夏ともなると、家族連れやグループがやってきて、海の家と呼ばれる、軽食等の提供、海水浴用品のレンタル、一時休憩所を兼ねる店が開かれることが多い。 現在では単に海水浴だけではなく、大きな海水浴場では各種のイベント等が行われることがある。

安全な海水浴を行なうために、地元自治体や商店街等が、砂浜の整備(ゴミ拾いなど)を行なったり、安全に遊泳を行なうための区域を整理したり、監視員を配置したりしている。近年はライフセーバーが常駐するところも増えている。 また、海水浴シーズンの前には必ず水質検査が行われ、大腸菌が検出された場合には閉鎖される。これは、大腸菌自体に害があることを必ずしも意味せず、大腸菌が存在するから他の有害な菌も存在する可能性が高いので危険と判断されるのである。

「遠浅の砂浜」が無い所でも、大量の砂を運び入れ、強引に白砂の砂浜を演出しているところもある。代表的な例はハワイのワイキキビーチ。

近代医学に基づき、それなりの療養施設を設けた「海水浴場」が設置されるのは、産業革命により中産階級(ブルジョワ)が社会をリードする18世紀中頃のイギリスからだった。

記録によるヨーロッパ最古の海水浴場は、1740年、イングランド東部、北海沿岸のスカーバラだったといわれる。

次いで1754年、イギリスの医師リチャード・ラッセルが、イングランド南部ドーバー海峡に面するブライトンに海水療法療養所を開設し、大変有名になった。1982年、明治政府の使節団がこのブライトン海浜保養地を視察している。

ドーバー海峡の対岸、ディエップにフランス最古の海水浴場が開設されたのは1767年で、ベルギー、オランダがこれに続く。

1793年にはフリードリッヒ・フランツ?世がバルト海沿岸のハイリゲンダムにドイツ最古の海水浴場を設立した。19世紀には地中海に展開する。

日本における海水浴の習慣は、鎌倉時代初期に現在の愛知県大野海岸で医療の一環として「塩浴」が行われていたのが記録上の起源といわれる。その根拠は、鴨長明が訪れ、「生魚の御あへもきよし酒もよし大野のゆあみ日数かさねむ」と詠んでいるからだという。

1858年、江戸幕府は諸外国と修好通商条約締結した。この条約の中で外国人の行動範囲を横浜の場合は六郷川以西、開港場から10里以内に制限していた。この横浜居留の外国人の行動を制限する居留地制度が撤廃されるのは、1899年7月17日のことである。江戸時代から観光地だった鎌倉・江の島はこの範囲に含まれていたため、明治維新以来、来遊する外国人も多く見られた。彼らの中には美しい海を見て海水浴を試みる者もあった。

最古の記録は、フランスの法律家ジョルジュ・ブスケの著した『日本見聞記?』である。それによると、1872年8月に「カタシエ(片瀬)で夕食前に海水浴をする。翌日我々は馬に乗って6時に藤沢に着く」とある。

続いて1876年夏、フランスの東洋学者=エミール・ギメが片瀬の海で海水浴をしたが、電気クラゲに刺されて岸に戻ったという。

米国の生物学者=エドワード・モース博士はシャミセンガイ研究のために江の島に臨海実験場を開設したが、1877年8月11日の日記に「同行の帝国大学の外山教授や松村助手らと江の島の海で海水に浴す」とある。

しかし、この地の海水浴場開設に大きな影響を与えたのは医師=エルヴィン・フォン・ベルツである。1879年7月6日の『ベルツの日記』によれば、「海水浴場適地を探索するため横浜から馬車で江の島に来訪」し、翌年7月13日の日記には「鍋島侯爵の子ども2人を片瀬へ海水浴に送る」と出てくる。

また、1883年、暁星学校の教職員(アルフォンス・ヘンリック神父らフランス人、米国人、日本人)が片瀬で海水浴したという。

横浜市金沢区の富岡八幡宮の前の浜は明治維新のころ横浜の山手・本牧に居留した外国人の娯楽の場所となった。ローマ字で著名な眼科医ヘボン博士 (Dr. James Curtis Hepburn) が、富岡海岸の水質がよいことから海水浴を奨励した。1881年ころに「海水浴場神奈川縣廰」という標識が建てらたという。しかしこれは外国人専用だったらしい。

以後、海水浴場が各地に開設されるようになる。「日本最古の海水浴場」標榜するところを編年順に列記する。
ン新世紀 パートナ フコキ センター 真実の愛 オクシ ピンク バッハ マーケッ イスト バッテラ ショットバ レーシ ストラ パンク テレック オクシ スイッチ イエローサ バレル プノンペン 旅への扉 ロック しょうなん ベール スポイト こごみ グース ビンデ ロブス シャーレ リビエラ レーム ガクア スピン ラムネ カナキン トロポニン データフ ほろのべ マイセン テンポラリ きょうきょ ピングカー ザイソ ズロース プレート チュービ ンチェーン シラカン

1880年 - 沙美海岸(岡山県倉敷市玉島)に医師=坂田侍園の薦めで、海水浴による療養施設の為の仮小屋が建設される。
1881年 - 兵庫県須磨海岸にオランダ人医師W・ハイデンによって医療目的の海水浴場が設置される。
1881年 - 医師だった後藤新平が愛知県千鳥ヶ浜に海水浴場を開く。
1982年 - 沙美海岸に本格的な海浜病院を建て、村営海水浴場開設。
1982年10月9日 - 三重県伊勢市二見町の立石浜、オランダ人の医師ポンペからオランダ医学を学んだ初代軍医総監の松本順によって日本最古の海水浴場として国に指定。
1884年 - 三重県二見の旧二見館前に海水浴場が移設され、二見館に海水温浴設備が設けられる。
1885年 - 内務省初代衛生局長=長与専齋のすすめにより鎌倉由比ヶ浜の三橋旅館が海水浴場を開設したことを東京横浜毎日新聞で広告。
1885年 - 軍医総監の松本順が、健康法の一つとして神奈川県の大磯海岸照ヶ崎海岸を海水浴場に認定。当時は「湯治」のように、ただ海水につかったりあがったりを繰り返すだけだったようだ。しかし、まもなくレジャーとして発展し、1898年に発表された『鐵道唱歌』には、「海水浴に名を得たる、大磯見えて波涼し」の歌詞が見られる。東京近辺では、ほかに神奈川県橘樹郡田島村(いまの川崎市の南東端)が、海水浴場として知られていた。